昭和50年12月16日 朝の御理解
御理解 第19節
「金光大神は形が無うなったら来てくれというところに行ってやる。」
如何に生神金光大神様でも、肉体を持っておいでられる時には、そんな訳にはいかなかった。けれども形が無うなったら、いわゆる魂の世界に入られたら、来てくれと言う所には行ってやる。来てくれと言う所に、立ち所に御取次の働きを受ける事が出来るぞ。又お取次をしてやるぞと言う事だと思うんです。昨日は私の方の家内と椛目の妹と二人で久留米に買物に出ました。明日が父の丁度丸一年になりますので。一年の式年祭を奉仕させて頂く、それで偲び草なんかの買物にまあ行ったわけです。
丁度昨日朝の御食事の時に、新聞の折込が入ってました。そして十五日から開店をするという、その店に丁度私はこう言うものはどうだろうかと言うのが出ておりまして、しかもそれが、二割引きとか三割引きとかであると言うのです。それでもう早速もうあっちこっち行かずに丁度今日が開店でもあるなら、そしてこんなに安うして貰うならそこにきが良かぞと、私が言うとりましたから、二人で出かけたんです。そうですそしてまあ、行って見た所が、まだ全然その商品がなかったと言う訳です。
まあがっかりして神様のお願いしてある事だからと言うので、他の処へ参りましたら、私が言いよりましたのと同じ品物が、しかもやはり二割五分か負けてもろうて調たつしてきたという訳です。だから他の処で買ってきた訳です。まあ勿論ギリギリのところだったか何か知らんけれども、わざわざチラシまで入れてある事ですから、まあお店の方で何かの手違いがあって結局開店になって居なかったのであろうと思います。所謂看板に偽りありと言う訳であります。
何処そこには幾らいくらでしかもそういう品物があると丁度さいわい、どうせ買わせて頂くなら初めての、いわば開店祝いであり、それに安くしてまで貰えるなら、そこが良かろと云うて行った所がこちらが、そこにはこちらが所謂そのチラシに出ておった商品は全然出ていなかった。私は思うんですけどね、これはこの御理解第十九節だけではありません。御教えの全てがね、御教えの全てが金光大神の言われることには間違いが無い。おかげの頂ける内容を持って居るのです。
本当に生神金光大神様と念ずる所に、立ち所に生神金光大神の、お取次の働きと言うものが始まって、お願いが出来おかげが頂いて行けれる。おかげの泉の扉のところにも私はそれを書いとります。「看板に偽りがあってはなりません。だから繰り返し読んで下さい。一回二回読んでそのまま放ってしまう、所謂新聞雑誌の様な読み方をしてはいけません。いわゆる乱読です。少なくとも十回は読んで下さい。」
そういう風まあ一番初めの所に書いてあります。不思議な事にその遠隔地の方達がおかげを頂くですね。おかげの泉。ここにお参りが出来ない、毎日一回読むと言う方があります。だから三十回月には読む事になるです。分かるとか分からないと言う事ではない。本当に看板に偽りはないと、おかげを受ける人はそりゃ有難い御本だとまあ言うて下さるでしょうけれども、それを実行しないでおかげを頂くの頂かないのと云う様な事であっては、いわば私が云うておる事も嘘になる。
教主様の御教えでもそうです。教えを頂いてその教えを守らして頂いたら、おかげが受けられる仕組みになっているのが、金光教祖が教えておられるみ教えであり、御理解であります。ですから、私共は教祖生神金光大神様の言うなら生き証人、所謂実証者にならせて頂くおかげを頂かねばなりません。私は今朝方お夢を頂いておった。沢山の人がお参りをしてきているんですけど、それぞれがおかげを受けなければいけない。いろいろな事情があると言うのです。
それでどういう信心をさせて頂いたらおかげが受けられるかと言う訳です。私はその方達にそういう質問とかお伺い等をされる前に、暫くお話の内容は忘れましたけど、自分ながら有難いお話を、まあ丁度朝の御祈念の後の御理解の様に具合いにお話をさせて頂いて居った。その後に皆に、質問または質疑応答ですね、を私が求めて居る訳です。そしたら皆さんがハイハイと手を挙げて我先に色々言われます。余り皆さんが一緒に言われるもんですから、それじゃ何が何やら分からん。
それで私は皆んなが一緒にそう言うて居られるのを聞きながら、どういう風に答えたらよいだろうかと思うて御祈念をして居る。そしたらねそれに私が答えて言って居る事なんです。今私がねお話を聞いて頂いたでしょう。これだけ沢山の人が質問があり、どうい風に信心をしたらおかげを頂くだろうかと言うて、例えば皆さんがガヤガヤ言うてなさっとるけれども、私には一つも聞こえない分からない。
一遍に言われたって。皆さんの言うならば疑問であったり、まあ尋ねようとなさっている事は、私が先程三十分ばかり話した中に全てが入っていますよと言うお夢であった。よくそういう人があります。先生どげな信心したらおかげ頂くでしょうかと。まあ今朝の御理解を頂きなさいと、まあ私は云う訳です。それでもまた此処へ出て来てから、どういう信心になったらおかげを受けるかという訳です。
私はこれはもうそのお夢を頂いてからもう改めて思うたんですけれども、合楽の御理解はですね、もう質問する事はない程に、言うならばあなたが今日願わなければならないない様は余すことなく朝の御理解に出て来るです。ああ本当にこの様な問題でこう言う様なおかげを頂きたいのだけれど、と例えばおかげを受けなければならない事を思って、お参りをして来たら、もう必ず朝の御理解に。
ああこれじゃったああこれが私には出来ていなかったと言う様な、また是からこういう生き方で行ったらおかげが頂けるだろうと言う様なです、ちゃんと道が示し明らかにしてあるです。私は今日、お夢を頂いて改めてそれを思います。だから皆さんがこうして、朝の御理解を頂いて下さる朝の御理解の中にはそういう神秘的なおかげの元が内容にあると言う事を、先ず知って頂きたいと思います。
そしてそれを、ああこれが欠けておったと、例えばここの処を私が間違って居った所をです、素直に改める気になり素直にそれを行の上に表す様になったらです、必ず信心も分かって行くでしょう。おかげも又表れて来るです。その上にです生神金光大神のお取次と頂くのですから、金光大神がお取次をして下さるのですから、天地金乃神様のおかげが受けられるのであります。金光大神がおかげを下さるのじゃありません。
金光大神は何処までも来て呉れと言う所に来て下さって、そして氏子の願いを神様に取り次いで下さると云う御用をして下さるだけです。おかげを下さるのは天地金乃神様であります。だから生神金光大神のお取次を頂くと言う事は、言うなら天地金乃神様から受けて居られる所の御信用。だから金光大神が仲に入って取次をして下さっておかげの受けられない筈が無いのです。
お金を借りるのにもう絶対の、言うならば力を持った人が保証人になって呉れれば銀行が私自身になら財力も力もなかってもやっぱり貸して呉れる様なもんです。そこん所を金光大神が天地金乃神様からの御信任を受けられる方のお取次を頂いておるのですから、おかげの頂けない筈が無い。もしおかげが頂けんならやはり日頃頂いて居るみ教えを思うてみて、成程こげなこつはいくらお願いしてもおかげ頂かんじゃろう、こう云う様な間違ったお願いでは、そこん所はちゃんと示し明らかにしてあります。
例えて云うならば、どういう事でも願うて良い人間の生きて行く上に様々な難儀は云うに及ばず人事百般それは牛馬の事に至るまで実意を以て願えと教えられてある。私の場合、子供の場合、なら願うなら願い放題の事になると言うのではないです。私共の手元のところ、言うなら実意の所をです、自分で確かめてみてそしてお取次を願わなければなりません。如何に銀行から金を借りるからあなた保証人になって下さいとどんなに実力を持った人でもです、これに金ども借りてやりよったら自分が迷惑するだけでなく。
この男には立ってやられない。と言う様な者には如何に保証人でもおいそれと保証人になって呉れるはずはありません。同んなじです。金光大神もですそこに私しゃ教えがあると思うです。正して行くと言う事です。私共は一人一人金光大神の教えに基づいておかげを頂いて行こうと云うので御座いますから、金光大神の言うことに、いわば背かぬように、よく守ってそしてお取次を願うと言う事にならなければならぬ。決して金光大神が難しい事を仰っておられるのでは御座いませんのですから。
昨日富久信会の時に、私ちょっと気付いた事を話さして頂いた事でしたけれども、例えばここには沢山よその御信者さんもお参りになるし、又よそで教会を持っておいでられる先生方もお参りになります。まあ言うならば案ばい見と言うか、まあ模様見と言う方達もあります。けれども末永先生とか富永先生なんかの場合は、合楽の信心の全てを頂こうと云う姿勢で掛けられるからおかげ受けられるのだと言う事でございます。
只お参りをして、合楽の良かとこがあれば、良かとこだけ貰うて行こうと言う様なものではなくて、合楽の信心の全て、まあ言うならば、自分でキャッチし得るだけのものを頂いて帰って、それをそのまま、自分のお広前に表して行こうとされるその姿勢がね、なら末永先生のところでも、富永先生のところでも、ああしたおかげを受けて居られるのだということです。だからひと言ふた言、実行したからと言った様なことではなくて、ならここんところをです。
おかげの泉に私が申して居ります様に、看板に偽りがあってはならない。本当におかげを受けて貰わなければならない。それにはやはり、少なくとも十回位は読み返し読み返しして、おかげを頂いて下さいと言う様に、私が申しております。ですからそれをそのままに実行する。例えば大祓信行を最近は言われますがです、その大祓信行の願いというものはです、無条件であると言う事。
そしてこれが神様と交流して居る事であろうかと思われる様な、言うなら心に喜びが湧いて来る。そういう心に喜びが湧くまで、やはり五巻よりも十巻、十巻よりも十五巻と云う様にです、それを実行して初めてそこに成程と言う合点の行くおかげが受けられるのです。私は合楽の信心を頂くと言う事は、もう言うならば一から十までを有難く受けるという気持ちにならなければ、私が言う様なおかげには繋がらないと思う。
金光大神は形が無うなったら来て呉れと言う所に行ってやる。来て下さるのだけれども、こちらが願う心の状態と言う者がです、やはり金光大神がよしそれなら私が保証人になって、ならおかげを貰ってやろうと言われる様なおかげを頂かなければいけんです。それにはね、いうなら金光大神の昨日の御理解を頂くならば金光大神の世界に住むと言う事。金光大神の世界の仲にまた合楽の世界があると言う事。
その合楽の世界で通用する生き方と言う者をです、先ずは身に付けなければならんと言う事になります。これは合楽にしか通用しないと言う事であります。ですからそこん所を私共が頂いて実証して行くおかげを頂いて、言うならば合楽の先生の言われる事には一分一厘間違いが無いという、言うなら確証を自分自身が頂いて行かなければいけない。言うならば示現活動にもなりません。
もう本当に親先生が言われるとおりですと、親先生のお取次頂いたら間違いないですと云う様にです、おかげをそこに表して初めて嘘ではないと言う事になります。折角言うなら自分が買いたい品物がそこにある。しかも割引きで売り出すと言うチラシがそこに出ておるから買いに行った。所が実際はまだ品物も全然出てないし、その目指す品物もなかった。合楽にお導きをさして頂いた。
所が目指すおかげが頂けなかったと、私はそう言う様な事はないと皆さんの一人一人が確信して下さる信心を頂いて貰わなくては、確信を持ってそれを、私は人に伝えて行けるだけのものを、身に付けておいでられなければいけない。こん日の例えば報徳祭を奉仕させて頂きます。私は春秋の大祭も報徳祭も同んなじ心で奉仕させて貰う。春秋の大祭は本式にやるけれども、報徳祭とか夏の祈願祭は、まあザーッとでも良いと言う様な向きがあります。けれども、私にとっては矢張り。
四神様にしろ三代金光様にしろ、いわば合楽の大恩人の方達に対する恩に報いるお祭りですから。少しでも手を緩める事も手加減をすると言う事もありません。まあその事も夕べ話した事です。お供えだから一つでも本当に矢張り神様がそういうこちらの思いを汲んで下さって、もうそれこそ生き生きとしたお供えでも集まって来る。昨日なんか例えばお魚なんかは、もうぶりんかもう何本も来ている。教祖大祭の時よりもかえってその見事なお供えが集まって来ている。
私が口にはです教祖大祭も云うならば報徳祭も同んなじだとそういう心掛けで奉仕するんだと例えば言うてもです、いわば教祖大祭より見落ちのする様な御大祭であったとするならばです、私はこうやって皆さんに口張って話して居る事が嘘になる。だから私自身がそのおかげを頂いて表し皆さんに示しておるのですから、皆さんとても矢張りその通りのおかげが受けられる。
もしおかげが受けられんのは、まだこちらの信心のまだ、不行届きであることを悟らして貰うて、教祖様のお言葉には決して嘘はない、間違いはない。親先生の言われる事に間違いはない。そういう確信を愈々つくっていかねばならない。そう言う事をです、私共は分からして貰うて、この金光大神来て呉れと言う所に行ってやると言う、どこででもたち所に金光大神のお取次が頂けてそしておかげが頂けると言う事になると思うですね。 どうぞ。